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追悼か、政治か。
ウクライナ旗手が貫いた信念と、IOC会長が流した涙。
ミラノ・コルティナ冬季五輪で、戦争犠牲者の顔を描いたヘルメットを手放さなかった選手が失格になった。
なぜ追悼が「政治的表現」とされたのか。
この記事でわかること
IOC会長が涙を流しても覆らなかった――ヘラスケビッチ失格の全経緯
スケルトン男子ウクライナ代表のウラジスラフ・ヘラスケビッチ(27)が失格処分を受けた。
戦争で命を落とした仲間24人の顔を描いた「追悼ヘルメット」を競技中も着用すると譲らなかったためだ。
AP通信によると、ヘラスケビッチは練習では5回のランで首位に立っていた。
メダルの有力候補だった選手が、本番のコースを一度も滑ることなく大会を去った。
3日間の攻防、そして競技直前の決裂
発端は2月9日にさかのぼる。
ヘラスケビッチは公式練習で、灰色のヘルメットを着けてコースを滑った。
そこには戦争で亡くなったアスリートやコーチの白黒の顔写真が貼られていた。
CNNによると、IOCのコミュニケーション担当者が選手村を訪れ、着用禁止を直接伝えた。
代わりに追悼の黒い腕章をつける案も示された。
だがヘラスケビッチは拒んだ。
CNNの取材に「たとえIOCがこれらのアスリートを裏切っても、自分は裏切らない」と語っている。
「このヘルメットは2日前も、昨日も、今日も着けている。明日も本番の日も着ける。この人たちの犠牲があるから、自分は今ここにいられる」
――ヘラスケビッチ(CNN)
11日の練習を終えた時点でも首位。
本番への出場を明言し、着けられないなら出ないと宣言した。
涙の面会、そして失格
12日朝、コルティナダンペッツォのスライディングセンター。
Guardianによると、コベントリーIOC会長は予定を変更し、自らヘラスケビッチのもとを訪れた。
面会は約10分。溝は埋まらなかった。
国際ボブスレー・スケルトン連盟が失格を決定。
ヘラスケビッチのアクレディテーションは剥奪され、選手村にも戻れなくなった。
ロイターによると、コベントリー会長は会見で涙を流しながらこう語った。
「誰もメッセージそのものに反対しているわけではない。強いメッセージだ。追悼と記憶のメッセージだ」。
そして「本当に彼に出場してほしかった。感情的な朝になった」と声を詰まらせた。
「言葉にするのが難しい。空虚だ」
――失格後のヘラスケビッチ(Guardian)
父でありコーチでもあるミハイロ・ヘラスケビッチは「IOCが私たちの夢を壊した。不公平だ」とAP通信に語った。
スタートハウスの横で座り込む父の姿を、複数メディアが報じている。
ウクライナのシビハ外相は直後に「恥辱の瞬間だ。IOCが禁止したのはウクライナ選手ではなく、自らの評判だ」と批判した。
しかし、なぜ戦争犠牲者への追悼が「政治的表現」とされるのか。
IOCの論理を見ていくと、問題の構造はもう少し複雑だ。
「問題はメッセージではなく場所」――五輪憲章50条が引いた一線
IOCは追悼の中身を否定したわけではない。
禁じたのは、それを表現する場所だった。
この一点を見落とすと、問題の全体像を見誤る。
多くの報道が「追悼を政治的と決めつけた」という批判を伝えているが、IOCの論理はそこにはない。
五輪憲章50条2項
「いかなる種類のデモンストレーションや、政治的、宗教的または人種的な宣伝も、全ての五輪関連施設や会場では認められない」
NBC Newsによると、IOCのアダムズ報道官は会見でこう明言した。
「重要なのはメッセージではなく、場所だ」。
つまりIOCの立場はこうだ。
追悼の気持ちは理解する。SNSでも記者会見でも自由に発信してほしい。ただし「競技中の場」だけは、全選手に等しく開かれた空間として守りたい。
なぜ「場所」にこだわるのか
Sports Examinerが報じたアダムズ報道官の発言が、IOCの論理を端的に示している。
「世界には130の紛争がある。どれほど悲惨であっても、130の紛争すべてを競技中の場に持ち込むことはできない」。
1つの追悼を認めれば、別の紛争の当事者も「なぜ自分はダメなのか」と問うだろう。
IOCはその連鎖を防ぎたかった。
もうひとつ、見落とされがちな論点がある。
アダムズ報道官は「選手が所属国の政治的圧力で、場にメッセージを持ち込まされることを防ぐ」という側面にも言及した。
ルールは制限であると同時に、選手を守る盾でもあるというわけだ。
なおこのガイドラインは4,500人の選手の承認を経て策定されたと、Sports Examinerは報じている。
時速120kmで見えないのに、なぜ禁止なのか
ここで奇妙な事実が浮かぶ。
AP通信によると、12日朝の面会でコベントリー会長とヘラスケビッチは、ある点で意見が一致していた。
スケルトン競技は時速120km以上で滑走するため、ヘルメットの絵柄は肉眼でほぼ判別できない。
IOCはこれを妥協の糸口にしようとした。
「どうせ見えないなら、別のヘルメットに替えてもらえないか」と。
ヘラスケビッチは動かなかった。
24人の仲間が自分と一緒にコースを滑ること自体に意味があったからだ。
IOCの論理は一応、筋が通っている。
だが同じミラノの会場で、別の追悼行為が認められていた事実を並べると、話は変わってくる。
キッパーはOKでヘルメットはNG?――浮上する「二重基準」論争
同じ大会で、犠牲者を追悼する行為が問題にされなかった例がある。
ヘラスケビッチが「差別的だ」と訴えた根拠は、ここにあった。
もし自分の仲間が戦争で命を落とし、その追悼行為が「ルール違反」と言われたらどう感じるだろう。
この問いを胸に、3つの事例を並べてみたい。
| 選手 | 追悼の内容 | IOCの対応 |
|---|---|---|
| ヘラスケビッチ(ウクライナ) | 戦争犠牲者24人の顔写真ヘルメット 場面:競技中 |
失格 |
| ファイアストーン(イスラエル) | 1972年ミュンヘン犠牲者11人の名入りキッパー 場面:開会式 |
不問 |
| ナウモフ(アメリカ) | DC墜落事故で亡くなった両親の写真 場面:キスアンドクライ |
不問 |
AP通信によると、ヘラスケビッチはイスラエルのスケルトン選手ジャレッド・ファイアストーンの事例を挙げた。
ファイアストーンは開会式で、1972年ミュンヘン五輪で殺害された11人のイスラエル選手・コーチの名前を刻んだキッパー(ユダヤ教の帽子)をかぶっていた。
ヘラスケビッチの言葉をそのまま引く。
「競技者が文字どおり、死者の記憶を頭に載せて追悼した。根本的に何が違うのか、率直に理解できない」。
「場所が違う」で説明できるか
IOCの論理に立てば、ファイアストーンのキッパーは「開会式」、ナウモフの写真は「キスアンドクライ(採点待ちの場所)」であり、「競技中の場」ではない、という区別になるだろう。
だがヘラスケビッチはこう反論している。
「IOCのルールは開会式でも、表彰式でも、競技場でも同じはずだ」。
五輪憲章50条2項は「全ての五輪関連施設や会場」を対象としており、競技中だけに限定されていない。
この反論にIOCは公式な回答を出していない。
同一選手への矛盾する判断
もうひとつ見逃せないのは、ヘラスケビッチ自身の過去だ。
2022年の北京冬季五輪。
彼はスケルトンの最終ランを終えた直後、「NO WAR in Ukraine」と書いたサインを掲げた。
ロシアの全面侵攻が始まるわずか数日前のことだ。
NBC Newsによると、IOCはこのとき「平和を求める呼びかけ」であり五輪憲章に違反しないと判断した。
同じ選手の追悼行為は一貫して扱われる → 4年前はOK、今回はNGという結果になっている。
「突然、このオリンピックではウクライナの選手だけが失格にされる。本当に差別的に見える」
――ヘラスケビッチ(NBC News)
英国の五輪スケルトン金メダリスト、リジー・ヤーノルドはGuardianの取材に「IOCは彼に謝罪すべきだ。間違った判断だ」と語った。
THE DIGESTによれば、ラトビア代表コーチも支持を表明している。
国際的なスライディング競技のコミュニティで、批判の声が広がった。
なお、ヘラスケビッチだけが標的になったわけではない。
共同通信によると、ウクライナの他2選手もヘルメットに書かれたメッセージを禁止された。
ショートトラック男子のオレフ・ハンデイは「英雄主義があるところに決定的敗北はない」と記したヘルメットの使用を国際スケート連盟に止められている。
ヘラスケビッチはCAS(スポーツ仲裁裁判所)への提訴を表明した。
だが、すでに競技は始まっている。勝ち目はあるのだろうか。
CAS提訴の行方と、五輪が突きつけられた問い
CASに提訴しても、競技に間に合わない。
これが最も残酷な現実だ。
CASの五輪仲裁は通常の裁判とは違い、大会期間中に限定された特別手続きで行われる。
大手法律事務所の解説によると、申し立てから24時間以内に判断を出すのが原則だ。
だがスケルトン男子の決勝は翌13日。
ヘラスケビッチのアクレディテーションはすでに剥奪されている。
⚠️ ここからは推測です
CASの判断内容は予測できないが、競技スケジュールとアクレディテーション剥奪の事実を踏まえると、競技復帰は極めて難しいのではないか。
では、なぜ提訴するのか。
目的は「先例を作ること」にあるのだろう。
CASの判断は国際スポーツ法の事実上の判例として機能する。
ここで「追悼は政治的表現ではない」という判断が出れば、今後の五輪で同じ問題が起きたとき、選手は守られる。
ヘラスケビッチの3条件と、650人の犠牲
失格が決まる直前、ヘラスケビッチはIOCに最後の提案をしていた。
Guardianが報じた3つの条件はこうだ。
①追悼ヘルメットの着用許可、②IOCからの謝罪、③ウクライナのスポーツ施設への発電機の提供。
3つ目に注目してほしい。
ウクライナのスポーツ施設は日常的にロシアの砲撃を受けている。
ヘラスケビッチは「IOCが本当にウクライナに寄り添うなら、言葉ではなく物資で示してほしい」と求めたわけだ。
この提案は受け入れられなかった。
Times of Indiaによると、ゼレンスキー大統領はXでこう書いた。
「この真実が不都合であったり、不適切であったり、"スポーツイベントにおける政治的デモ"と呼ばれたりするべきではない」。
NHK Worldによれば、ウクライナ外務省は、ロシアの侵攻以来650人以上のアスリートやコーチが命を落としていると発表している。
ヘルメットに描かれた24人は、そのほんの一部にすぎない。
「ウラディスラフは今日出走しなかった。だが一人ではなかった。全ウクライナが彼と共にいた。選手が真実と名誉と記憶のために立ち上がるとき、それはすでに勝利だ」
――ウクライナ五輪委員会(NBC News)
ヘルメットに描かれた24人の中には、NBC Newsによると、バフムート近郊で戦死したフィギュアスケーターのドミトロ・シャルパルがいる。
2016年のユースオリンピックでヘラスケビッチのチームメイトだった。
ボクサーのマクシム・ハリニチェフも描かれている。
彼らはもう、五輪のコースに立つことはない。
ヘラスケビッチはその代わりに、24人の顔を頭に載せて滑ろうとした。
追悼と政治の境界線はどこにあるのか。
現在進行形の戦争が続く限り、この問いに明快な答えは出ないだろう。
だがヘラスケビッチの失格が突きつけたのは、規則の是非を超えた、もっと根本的な問いではないだろうか。
五輪は誰のためにあるのか、と。
まとめ
- ヘラスケビッチはロシアとの戦争で命を落とした24人のアスリートの顔を描いたヘルメットで競技に出ようとし、五輪憲章50条違反として失格処分を受けた
- IOCは追悼の内容は否定せず、「競技中の場」という場所を問題にした。130の紛争を抱える世界で、1つの例外を認めれば全てに波及するという論理だ
- 同じ大会でイスラエル選手のキッパーや米国選手の写真は不問とされ、「二重基準」との批判が上がっている
- CASへの提訴が表明されたが、競技はすでに進行中。復帰は難しいとみられ、提訴の意味は今後の五輪に向けた先例づくりにあるのではないか
- ウクライナでは650人以上のアスリート・コーチが戦争で命を落としている。ヘルメットの24人はその一部にすぎない
よくある質問(FAQ)
Q1. ヘラスケビッチのヘルメットには何が描かれていた?
ロシアとの戦争で命を落としたウクライナのアスリートやコーチ24人の白黒の顔写真が貼られていた。
Q2. なぜ追悼ヘルメットが五輪で禁止されたのか?
五輪憲章50条が競技会場でのあらゆる政治的・宗教的表現を禁じており、IOCは追悼の内容でなく場所を問題にした。
Q3. イスラエル選手のキッパーはなぜ許されたのか?
IOCは公式な説明を出していない。場所の違い(開会式と競技中)が論理上の区別とみられるが、ヘラスケビッチは反論している。
Q4. CASへの提訴で失格は覆るのか?
CAS五輪仲裁は原則24時間以内に判断を出すが、競技はすでに進行中で復帰は極めて困難とみられる。
Q5. ヘラスケビッチは北京五輪で何をした?
2022年北京五輪で「NO WAR in Ukraine」のサインを掲げたが、IOCは「平和への呼びかけ」として違反認定しなかった。
Q6. ウクライナでは何人のアスリートが戦争で亡くなっている?
ウクライナ外務省によると、ロシアの侵攻以来650人以上のアスリートやコーチが命を落としている。
Q7. 他にもヘルメットを禁止されたウクライナ選手はいる?
ショートトラック男子のハンデイなど他2選手もヘルメットのメッセージを国際競技連盟に禁止された。
Q8. ロシアの選手はなぜ五輪に出場できるのか?
約12人のロシア選手が国旗・国歌なしの「個人の中立選手」として出場を認められている。
Q9. ヘラスケビッチとはどんな選手?
1999年生まれ、ウクライナ初のスケルトン代表。ミラノ大会では旗手を務め、練習で首位に立つメダル候補だった。
Q10. 五輪憲章50条とは何か?
「いかなる種類のデモンストレーションや政治的・宗教的・人種的宣伝も五輪会場では認められない」と定めた規定。
リアルタイムニュースNAVI 編集部
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📚 参考文献
- AP通信「Ukraine's Vladyslav Heraskevych out of Winter Olympics over banned helmet honouring war dead」(2026年2月12日)
- Guardian「Skeleton athlete kicked out over helmet with images of Ukrainians killed in war」(2026年2月12日)
- NBC News「Ukrainian star disqualified from Winter Olympics over helmet honoring war dead」(2026年2月12日)
- ロイター「五輪=『追悼ヘルメット』使用のウクライナ選手、IOCが失格処分」(2026年2月12日)
- CNN「ウクライナ五輪代表選手、戦死者追悼ヘルメットの着用めぐり失格」(2026年2月12日)
- CNN「ウクライナ代表選手の戦死者追悼ヘルメット、IOCに止められても着用続けると宣言」(2026年2月11日)
- THE DIGEST「戦争の犠牲となった同胞への追悼は『政治的宣伝』なのか」(2026年2月12日)
- Sports Examiner「MILAN CORTINA 2026 Review」(2026年2月12日)
- Times of India「Zelensky backs Olympian Heraskevych」(2026年2月10日)
- NHK World「IOC bans Ukrainian skeleton racer's helmet showing victims」(2026年2月11日)
- 大江橋法律事務所「東京オリンピックに関する紛争とCASのスポーツ仲裁」(2021年7月)