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病院で使う器具のほぼすべてが、今まさに危機にある原料から作られている。
ホルムズ海峡の事実上の封鎖をきっかけに、日本の石油化学メーカー各社がエチレンの減産に入った。ガソリンが値上がりするのはわかる。
しかし点滴バッグ、注射器、手術用チューブ——これらすべての原料が、ガソリンと同じ「ナフサ」から作られているという事実は、まだ広く知られていない。
ナフサとは何か、なぜ今これほど問題なのか、そして長期化した場合に私たちが受けられる医療はどう変わるのか。NHKや各報道機関が伝える医師の証言と企業の動きをもとに整理する。
この記事でわかること
点滴バッグも注射器も「石油の産物」——ナフサとは何か
点滴を受けるとき、あの透明な袋が何でできているか考えたことはあるだろうか。
テレビ朝日の報道で川崎中央クリニックの市村真也院長はこう断言した。
医師の証言
「点滴パックも石油でつくられている。体の中に入れるチューブも石油製品。ほぼ100%と言っても良いくらい石油製品を使っている」
(川崎中央クリニック 市村真也院長)
ガソリンが高くなるのは自分の話だと感じていた人も、この言葉には思わず止まるのではないか。
ナフサの正体——「魔法の液体」と呼ばれる理由
ナフサは、原油を蒸留して得られる透明な液体だ。石油化学工業の出発点として「魔法の液体」とも呼ばれる。
原油を精製所で加熱すると、ガソリン・ナフサ・灯油・軽油・重油と順に分離される。このナフサを800度以上の高温で熱分解すると、エチレン・プロピレン・ベンゼンといった物質が生まれる。
これらがプラスチック・合成ゴム・合成繊維、さらに医薬品の出発点になる。
テレビ朝日の報道によると、注射器のシリンジ本体と押し棒はポリプロピレン製、点滴バッグはポリ塩化ビニルかポリエチレン製だ。カテーテル・採血管・薬品ボトル——病院で体に触れるほぼすべての器具が、ナフサを起点にしている。
| 医療器具 | 主な素材 | ナフサとのつながり |
|---|---|---|
| 使い捨て注射器 | ポリプロピレン | ナフサ→プロピレン→PP |
| 点滴バッグ | PVC・PE | ナフサ→エチレン→各樹脂 |
| 採血管 | PP・ポリスチレン | ナフサ→プロピレン等 |
| カテーテル | PE・PVC | ナフサ→エチレン→各樹脂 |
| 使い捨て手袋 | ニトリルゴム | ナフサ→ブタジエン→NBR |
「254日分の備蓄があるのに」——原油とナフサは別の話
ここで多くの人が疑問に思うはずだ。「日本には石油の備蓄が254日分あると聞いた。なぜ心配なのか」と。
TBSの報道が確認した通り、日本が保有する石油の備蓄量は現在254日分ある。数字だけ見れば8か月以上分の余裕だ。
しかしこの254日分は原油の備蓄だ。原油を石油化学向けのナフサとして精製・供給できる量は、全く別の連鎖で決まる。
ロイター通信の報道によると、石油化学工業協会の統計(2024年)では、日本のナフサ輸入の73.6%が中東に集中している。ホルムズ海峡が閉じれば、この73.6%が止まる。
石油(原油)備蓄
254日分確保済み
量は十分・備蓄放出も可能
ナフサ(石油化学向け)
輸入の73.6%が中東経由
物流が止まれば即影響
原油の在庫がどれだけあっても、ナフサとして石油化学工場に届かなければ、点滴バッグも注射器も作れない。
これが「備蓄があるのに医療が心配」という逆説の正体だ。
ポイント
原油備蓄と石油化学向けナフサ供給は、全く別の問題だ。備蓄量の多さは、医療用プラスチック製造の安全を直接は保証しない。
では実際に、工場と医療現場には今どんな事態が起きているのか。
工場の半数が減産中——医師が語る「手術ができなくなる」現実
日本全国の医療現場では今、この問題はまだ「実感がない段階」にある。しかし工場側では、すでに動きが始まっている。
3月6日から始まった「減産ドミノ」
Bloomberg(日本語版)の報道によると、イランとの戦争が始まってから2週間余りで、日本国内にある約12か所のエチレン生産拠点のうち半数がすでに減産に入っている。
- 3月6日:三菱ケミカルが茨城事業所(茨城県神栖市)でエチレン減産を開始
- 3月10日:三井化学が千葉・大阪の設備で減産を開始
- 3月11日:旭化成が三菱ケミカルと共同運営する岡山県倉敷市の施設で減産を開始
- 3月17日:国内12か所中、半数が減産中と確認される
ロイター通信の報道によると、三菱ケミカルの広報担当者は「国産・輸入ナフサの調達の減少が避けられないと判断し、原料枯渇による操業停止を避けるため」と説明している。
さらに東洋経済の報道では、出光興産が山口県と千葉県のエチレン生産設備について、ホルムズ海峡の封鎖が長期化すれば停止する可能性があると取引先に伝えていたことも明らかになった。
医師が語る「長期化すれば甚大な影響」
工場の動きに対し、医療現場の医師たちは何を見ているのか。
TBSの報道で、いとう王子神谷内科外科クリニックの伊藤博道院長はこう警告した。
医師の警告
「手術ができなくなる。緊急処置ができなくなる。酸素投与もできなくなるとか、医療の質を担保することは難しくなってくる」
(いとう王子神谷内科外科クリニック 伊藤博道院長)
テレビ朝日の報道で市村院長は「直ちに在庫がなくなる状況ではない」としながらも、こう続けた。「ウクライナ戦争やコロナでも生産ライン停止・物品不足・価格高騰を経験した。今回はもっと大きい影響が及ぶのではないかと心配している」。
現時点では病院の在庫で持ちこたえている。だが「長期化した場合」という前提が、医師たちの懸念の核心にある。
この問題は、プラスチック製の医療器具だけにとどまらない。薬そのものにも、石油化学の連鎖は深く入り込んでいる。
ロキソニン1錠の「見えない正体」——薬と包材も石油化学の産物
「薬は化学合成だから石油とは別の話だろう」——そう思っていないだろうか。
実は、石油とは無関係に作られると思われてきた日常の鎮痛薬が、ナフサに深くつながっている。
鎮痛薬の有効成分はナフサから生まれる
かわせみデンタルクリニックの専門解説によると、ロキソニン(ロキソプロフェン)、ボルタレン(ジクロフェナク)、カロナール(アセトアミノフェン)はいずれも、ナフサをクラッカーで分解したときに生まれるベンゼンを出発点に、複数段階の有機合成を経て作られる。
ロキソニンを例にとると、分子の骨格となるベンゼン環と有機酸の部分は、ナフサ由来のベンゼンとプロピレンを原料に合成される。同じ解説によれば「ロキソニンは原油から始まり、石油化学コンビナート、製薬工場、卸、薬局と続く長いサプライチェーンの上に成り立っている」。
ポイント
ロキソニン1錠数円という「当たり前」の裏側には、中東の原油を出発点とする長い連鎖がある。
薬の「シート」にも石油化学が詰まっている
中身の薬だけではない。暮らしの設備ガイドの解説によると、錠剤を押し出す銀色のPTPシートにも、エチレン由来のポリエチレン樹脂が使われている。アルミ箔とプラスチックを接着するヒートシール層がナフサ由来の素材でできているためだ。
つまり薬の「中身」も「包み」も、ナフサと切り離せない。
エチレン減産が薬に与える影響——サプライチェーンの連鎖
かわせみデンタルクリニックの解説では、エチレン減産は「ナフサを割る全体量を絞ること」を意味すると説明されている。ナフサクラッカーはエチレンだけでなく、プロピレン・ブタジエン・ベンゼンをまとめて生み出す装置だ。
稼働を絞れば、ロキソニンの原料になるベンゼンの供給ポテンシャルも同時に細くなるといえそうだ。
⚠️ ここからは推測です
ただし、薬の供給が短期間で途絶える状況は現時点では想定しにくい。製薬会社は通常、複数の調達ルートと在庫を持っており、代替原料や海外調達で対応する余地がある。エチレン減産が医薬品の実際の不足につながるまでには、時間的な猶予があるとみられる。
政府は現状をどう見ているのか、そして影響が実際に家庭に届くのはいつなのかを整理してみよう。
政府「4か月分確保」vs 医療現場の懸念——影響はいつ来るか
政府と医療現場の見方には、明確な温度差がある。
経産相「4か月分確保可能」の意味
TBSとBloombergの報道によると、赤沢亮正経済産業大臣はこう述べた。「国内で原油から精製もできますので、トータル国内需要の約4か月分を確保可能と見込んでおります」。
政府はすでに動いている。3月16日には民間企業が貯蔵していた石油の備蓄放出を開始し、国内需要の15日分にあたる量を市場に供給した。さらに3月下旬には国家備蓄から1か月分の放出も予定している。中東以外からの調達先を急ぐ方針も示している。
医療現場が懸念する「時間軸」のギャップ
| 政府の見解 | 医療現場の懸念 | |
|---|---|---|
| 現状認識 | 4か月分のナフサ確保が可能 | 在庫で今は持ちこたえている |
| 長期化時 | 中東以外からの調達で対応 | 手術・処置・酸素投与が困難に |
| 強調点 | 「直ちにリスクはない」 | 「長期化すれば甚大な影響」 |
この温度差は、どちらかが間違っているわけではない。政府は「現在の備蓄と調達手段」から算出した数字を示し、医療現場は「長期化した最悪のシナリオ」を念頭に話している。見ている時間軸が異なるのだ。
影響が家庭に届くまでの「タイムラグ」
暮らしの設備ガイドの解説では、原料価格の変動が消費者の手元に届くまでには通常1〜3か月程度のタイムラグがあると説明されている。
原油・ナフサの価格が上がり、エチレン・プロピレンに波及し、プラスチック製品の製造コストが上がり、最終的に店頭価格や医療機関の調達コストに反映される——この連鎖に時間がかかる。
⚠️ ここからは推測です
今の減産・価格上昇がそのまま続くとすれば、家庭用品や医療器具の調達コストに影響が出てくるのは2026年夏以降と見られる。透析患者や定期手術が必要な患者など、医療用プラスチックを大量に消費するケースほど、影響が先に現れるだろう。
もっとも、停戦交渉の進展でホルムズ海峡の状況が改善すれば、この見通しは大きく変わる。東洋経済の報道では、一部のタンカーが海峡を無事に通過したことで供給懸念が後退している局面もあると伝えている。状況は日々変化している。
「見えていなかったリスク」——医療が石油化学に依存してきた構造
⚠️ ここからは事実に基づく考察であり、確定情報ではありません。以下は筆者の考察です。
報道が伝えていること
今回の報道は「ナフサが足りなくなると医療に影響が出る」という事実を伝えている。これは正確だ。ホルムズ海峡の封鎖という地政学的な出来事が、石油化学産業を通じて医療現場に波及するという連鎖は、複数の専門家・医師・企業が証言している通りだ。
別の文脈で読むと何が見えるか
しかし、この問題にはもう一つの読み方がある。「今回の危機が初めて明らかにしたことは何か」という問いだ。
点滴バッグ、注射器、鎮痛薬の包材、手術用チューブ——これほど多くの医療用品が石油化学に依存しているにもかかわらず、そのリスクはこれまでほとんど議論されてこなかったという見方がある。食料や半導体の「経済安全保障」は政策の俎上に乗ってきたが、医療用プラスチックや医薬品の原料となるベンゼン・エチレンの供給リスクは、制度設計の外にあったとみることもできる。
コロナ禍でマスクの供給が止まったとき、多くの人がサプライチェーンの脆さを実感した。しかしその「本当の根っこ」、つまりマスクを作るポリプロピレンがナフサから生まれるという連鎖には、当時も今も目が向きにくい。エネルギー安全保障と医療供給安全保障が、実は同じ問題の二つの顔だったという視点は、今回の事態が初めて可視化したものではないだろうか。
読者への問いかけ
ガソリンの値上がりは毎週報道され、誰もが意識する。しかしその同じ原油から、病院の点滴袋が、注射器が、鎮痛薬の包材が作られているという事実は、今回の危機が来るまで意識されてこなかった。
私たちの「安全」は、どこかの海峡を通るタンカーの航行という、非常に細い糸の上に乗っていたのかもしれない。その糸をどう太くするか——それは今後の政策と社会の選択に委ねられている。
まとめ:ナフサ問題で押さえておくべき5つの事実
- ナフサは原油から作られる透明な液体で、点滴バッグ・注射器・カテーテルなど医療用品の原料となるプラスチックの出発点だ
- 日本のナフサ輸入の73.6%が中東依存(石油化学工業協会、2024年)であり、ホルムズ海峡封鎖が直撃する
- 国内のエチレン生産拠点12か所のうち半数がすでに減産中(Bloomberg、2026年3月17日)で、三菱ケミカル・三井化学・旭化成・出光興産が対応済みまたは検討中だ
- 政府は「ナフサ国内需要の約4か月分を確保可能」(赤沢経産相)と発表しているが、医師たちは長期化した場合の手術・緊急処置・酸素投与への影響を懸念している
- 原料から末端製品まで1〜3か月のタイムラグがあるため、現時点での危機が医療器具・日用品の価格や供給に反映されるのは夏以降とみられる(推測)
よくある質問(FAQ)
Q1. ナフサとは何ですか?
原油を蒸留して得られる透明な液体で、プラスチック・合成ゴム・医薬品などあらゆる化学製品の原料となる石油化学の基礎素材です。
Q2. なぜナフサ不足が医療現場に影響するのですか?
点滴バッグ・注射器・カテーテルなど医療用具の大半がナフサ由来のプラスチックで作られているため、供給が止まると製造が困難になります。
Q3. 日本の石油備蓄は254日分あるのに、なぜ医療用品が心配なのですか?
254日分は原油の備蓄です。ナフサを石油化学工場へ届ける物流が止まれば、備蓄の多さに関わらず医療用プラスチックの生産は滞ります。
Q4. ホルムズ海峡が封鎖されると日本はどうなりますか?
日本のナフサ輸入の73.6%が中東依存のため(石油化学工業協会2024年)、封鎖が長期化すれば石油化学製品全般の生産に支障が出ます。
Q5. 政府はナフサ不足に何か対策をしていますか?
赤沢経済産業大臣が「国内需要の約4か月分確保可能」と発表。民間・国家備蓄の放出を進め、中東以外からの調達先確保も急いでいます。
Q6. 透析や手術を受けている患者への影響はいつ頃から出ますか?
原料から末端製品まで1〜3か月のタイムラグがあるため、現時点での供給減が医療現場の調達に響くのは2026年夏以降とみられます。
Q7. ロキソニンなどの薬もナフサ不足の影響を受けますか?
ロキソニン・カロナール等の鎮痛薬はナフサ由来のベンゼンを原料に合成されます。短期間で途絶える状況は想定しにくいですが、コスト増の影響は出うります。
リアルタイムニュースNAVI 編集部
reaitimenews.com
話題のニュースを「なぜ?」の視点で深掘りするニュースメディアです。法律・心理学・経済など専門分野の知識をもとに、報道だけではわからない背景や理由をわかりやすく解説しています。
📚 参考文献
- テレビ朝日「20円値上げ・ナフサも不足し医療への影響懸念 イラン情勢悪化」(2026年3月13日)[権威・断定根拠:市村院長コメント・ナフサの仕組み・減産の動き]
- TBS/Bloomberg「赤沢経済産業大臣・国内需要の4か月分を確保可能」(2026年3月17日)[権威・断定根拠:赤沢経産相発言・中東依存度4割]
- TBS「原油不足=ガソリンだけじゃない…化学製品のもとナフサ不足で生活全般に打撃」(2026年3月16日)[権威・断定根拠:石油備蓄254日分・伊藤院長の警告・民間備蓄放出15日分]
- ロイター通信「中東情勢でエチレン減産相次ぐ、旭化成や三菱ケミ」(2026年3月12日)[権威・断定根拠:中東依存73.6%・各社減産の詳細]
- 東洋経済「ホルムズ海峡の実質閉鎖で始まったエチレン減産」(2026年3月10日)[専門・断定根拠:出光興産の停止可能性通知・供給懸念後退の局面]
- Bloomberg日本語版「ナフサ不足は『炭鉱のカナリア』、日本の供給網が混乱に陥る恐れ」(2026年3月17日)[権威・断定根拠:エチレン生産拠点12か所中半数が減産]
- 暮らしの設備ガイド「ナフサと医療・衛生用品の関係とは?価格高騰が家庭に与える影響」[補完・断定根拠:医療器具とナフサの関係・1〜3か月のタイムラグ]
- かわせみデンタルクリニック「エチレン減産とジェネリック不足が揺さぶる日本の鎮痛剤・抗生剤」(2026年3月19日)[補完・断定根拠:鎮痛薬・抗生剤と石油化学サプライチェーンの解説]