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2026年3月3日、福岡地裁は生後11カ月の長女を死亡させたとして傷害致死罪に問われた母親に無罪を言い渡した。
求刑は懲役8年。事件から8年、17人の専門家が証言台に立つ異例の裁判だった。
なぜ裁判所は「暴行があった」と認めなかったのか。
その背景には、全国で揺れる乳幼児の頭部外傷をめぐる医学と司法の深刻な対立がある。
福岡地裁が母親に無罪――「暴行を加えたとは言えない」
朝日新聞の報道によると、福岡地裁の鈴嶋晋一裁判長は「暴行を加えたとは言えない」と述べた。
検察が求めた懲役8年を退け、母親の松本亜里沙さん(29)に無罪を言い渡している。
ただし「無罪」は「何も起きなかった」という意味ではない。
この判決の奥には、ひとりの母親が抱え続けた苦しみがある。
起訴状の内容
共同通信の報道によると、2018年7月28日午前7時15分ごろから同11時50分ごろ、福岡県川崎町の自宅で、長女・笑乃(えの)ちゃんの頭部に強い衝撃を与える何らかの暴行を加え、後頭骨の骨折などを負わせた。笑乃ちゃんは3日後、急性硬膜下血腫とびまん性脳腫脹で亡くなった。
急性硬膜下血腫とは、脳を覆う膜と脳の間に血液が急速にたまる症状だ。
びまん性脳腫脹は脳全体が腫れる状態をいう。
いずれも頭部に強い衝撃が加わった際に生じうるとされる。
母親は何を語ったのか
弁護側は、母親の持病であるてんかんの発作が原因だと主張した。
発作で笑乃ちゃんを落としたか、一緒に倒れた事故だとしている。
被告人質問での供述
FBSの報道によると、母親は笑乃ちゃんを出産した後、何度もてんかんの発作を起こしていた。それにもかかわらず、自己判断で薬の服用をやめていたという。理由は、薬の副作用と妊娠中だった第二子への影響が怖かったからだ。
母親は法廷で「全部私の責任だと思っています」と泣きながら述べた(FBS報道より)。
無罪の判決を受けてなお、自らを責めている。
「犯人なのに無罪」ではなく、「薬を止めた自分のせいで娘が亡くなったのかもしれない」という苦しみだ。
事件から判決まで約8年
この事件は異例の長さで推移した。
- 2018年7月28日:事件発生。笑乃ちゃんが頭部に重傷を負い、3日後に死亡
- 2022年2月ごろ:母親が逮捕される
- 2022年3月9日:福岡地検が傷害致死罪で起訴
- 2025年11月11日:裁判員裁判の初公判。母親は起訴内容を否認
- 2026年2月13日:検察が懲役8年を求刑。弁護側は無罪を主張
- 2026年3月3日:福岡地裁が無罪判決
事件の発生から逮捕まで約3年半。
起訴から初公判まで約3年半。
合わせて事件から約8年の歳月が流れている。
では、裁判所はどんな根拠をもとに「暴行とは言えない」と結論づけたのか。
法廷では17人もの専門家が証言台に立ち、医学的な論戦が繰り広げられた。
17人の専門家が証言――裁判で何が争われたか
裁判の最大の争点は、笑乃ちゃんの頭のけがが暴行によるものか、事故で生じたものかだった。
朝日新聞の報道によると、法医学や脳神経外科などの分野から計17人の専門家が証言台に立った。
裁判員裁判でここまで多くの証人が出廷するのはきわめてまれだ。
検察の主張と弁護側の反論
検察と弁護は、同じけがの事実をまったく逆に読み解いた。
| 検察側の主張 | 弁護側の主張 | |
|---|---|---|
| 骨折の評価 | 後頭部にY字状の骨折。家庭内の転落では生じえない強い外力(朝日新聞報道) | 骨折部分は厚くなく、低位落下でも生じるもの(朝日新聞報道) |
| 脳の腫れ | 低酸素では説明がつかないほどの腫れ。強い外力しか原因がない | 低酸素性虚血性脳症が原因 |
| 医療機関への説明 | 「床に座らせていたら倒れた」と虚偽の説明(産経新聞報道) | 当時は原因がわからなかった。後になっててんかん発作の可能性に気づいた |
| 動機 | 悪質な犯行態様(TNC報道) | 家族が育児に協力的で動機がない(産経新聞報道) |
「骨折しているのだから暴行は明白だろう」と思う人は多いのではないだろうか。
検察もまさにそう主張した。
ところが弁護側の専門家は、骨折した箇所が後頭部でもっとも出っ張った部分にあたると指摘した。
つまり転倒や低い高さからの落下で自然にぶつかる場所だという。
医師の見解が真っ向から対立
同じ骨折をめぐり、検察側の医師は「暴行でしか起きない」と証言し、弁護側の医師は「事故でも起こりうる」と証言した。まったく逆の結論が、同じ証拠から導かれた。
3カ月前にも骨折していた事実
見落とせない事実がもうひとつある。
RKBの報道によると、笑乃ちゃんは事件の約3カ月前にも頭の骨を折る重傷を負っていた。
体に複数のあざも見つかっている。
さらに産経新聞の報道では、福岡県警の意見聴取に対して一部の医師が「虐待による乳幼児頭部外傷」、いわゆるAHTとの見解を示していたことも明らかになった。
こうした事情を知ると「やはり虐待ではないか」と感じる人もいるだろう。
だが刑事裁判には「疑わしきは被告人の利益に」という大原則がある。
検察が「暴行だ」と証明しなければ、有罪にはできない。
被告側が「事故だ」と証明する必要はないのだ。
FNNの報道によれば、母親は最終陳述でこう述べた。
「私は本当に笑乃ちゃんを愛していた」「笑乃ちゃんにそんなことをするはずがない」。
福岡地裁は、検察側の立証が合理的な疑いを超える水準に達していないと判断した。
その結果が、今回の無罪判決だ。
そして、こうした判断は福岡だけの話ではない。
実は全国でAHTやSBSをめぐる無罪判決が相次いでいる。
全国で相次ぐ無罪判決――有罪率99.8%のなかで13件の異例
今回の判決は、孤立した1件ではない。
RKBの裁判詳報は「AHT(虐待による乳幼児の頭部外傷)が疑われる事件をめぐっては、全国で無罪判決が出るなど司法の判断が分かれている」と報じている。
SBS/AHTとはそもそも何か
SBSとは「揺さぶられっ子症候群」の略称だ。
英語でShaken Baby Syndromeという。
赤ちゃんを激しく揺さぶると、表面に目立つけががなくても脳に深刻なダメージが生じるとされてきた。
SBS/AHTの「3徴候」
硬膜下血腫・網膜出血・脳の腫れという3つの症状がそろえば、強い揺さぶりや暴行があったと診断される。これがAHT(虐待による乳幼児頭部外傷)とも呼ばれる考え方だ。長年、この診断に基づいて親や養育者が逮捕・起訴されてきた。
ところが近年、3徴候がそろえば虐待 → 病気や事故でも3徴候は起こりうるとの研究が相次いでいる。
関西テレビの報道によると、2017年に弁護士の秋田真志氏と甲南大学の笹倉香奈教授が冤罪救済を行うSBS検証プロジェクトを立ち上げた。
有罪率99.8%のなかで13件の無罪
SBS検証プロジェクトの公式サイトによると、プロジェクトが関わった裁判で2018年以降に13件の無罪判決が出ている。
日本の刑事裁判 有罪率
99.8%
SBS/AHT事件の無罪
13件
起訴されればほぼ有罪になるこの国で、たった1つの類型の事件から13件もの無罪が生まれている。
異例という言葉では足りないほどの事態だろう。
関西テレビの報道はこう伝えている。
「プロジェクトの調査により、家庭内の事故や病気が原因でも3徴候が生じる例が法廷で次々と明らかになった」。
全国的な問題との関連
SBS検証プロジェクトは、従来の「3つの症状がそろえば虐待」という診断基準そのものに疑問を投げかけている。この流れのなかに、今回の福岡地裁の判決も位置づけられる。
今後の焦点は検察の控訴判断
⚠️ ここからは推測です
検察が今回の無罪判決を受け入れるかどうかは現時点で明らかになっていない。全国でAHT/SBS事件の無罪が続いている状況を踏まえると、福岡地検が控訴に踏み切るかどうかは注目に値する。控訴の期限は判決から14日以内だ。福岡地検の判断は3月中旬までに示されるだろう。
この事件は「虐待した親を罰するべきか」という単純な問いでは語れない。
医学で白黒をつけられない領域を、刑事裁判がどう扱うのか。
その難しさを、今回の判決はあらためて浮き彫りにした。
まとめ
- 福岡地裁は2026年3月3日、生後11カ月の長女に対する傷害致死罪で起訴された母親に無罪を言い渡した
- 裁判長は「暴行を加えたとは言えない」と判断。弁護側はてんかん発作による事故の可能性を主張していた
- 裁判では17人の専門家が証言し、同じ証拠から医師の見解が真っ向から分かれた
- 全国ではAHT/SBSをめぐる無罪判決がすでに13件出ており、今回の判決もその流れに連なる
- 検察が控訴するかどうかが次の焦点となる
よくある質問(FAQ)
Q1. 福岡地裁はなぜ母親に無罪を言い渡したのか?
鈴嶋晋一裁判長が「暴行を加えたとは言えない」と判断し、検察の懲役8年の求刑を退けた。
Q2. 事件はいつ起きたのか?
2018年7月28日、福岡県川崎町の自宅で生後11カ月の長女が頭部に重傷を負い、3日後に死亡した。
Q3. 弁護側はどのような主張をしていたのか?
母親の持病であるてんかんの発作で娘を落としたか、一緒に転倒した事故の可能性があると主張した。
Q4. AHT・SBSとは何か?
乳幼児の頭部外傷が虐待によるものと診断する医学上の概念。近年その精度が問題視されている。
Q5. 全国でどれくらいSBS/AHTの無罪判決が出ているのか?
SBS検証プロジェクトが関わった裁判で2018年以降13件の無罪判決が出ている。
Q6. 検察は控訴するのか?
2026年3月3日時点で福岡地検の控訴判断は明らかになっていない。控訴期限は判決から14日以内。
Q7. てんかん発作で赤ちゃんを落とすことはあるのか?
弁護側はてんかん発作による落下や転倒の可能性を主張し、裁判所はこれを否定しなかった。
Q8. 裁判員裁判で何人の専門家が証言したのか?
法医学や脳神経外科などの分野から計17人の専門家が証言台に立った。
リアルタイムニュースNAVI 編集部
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📚 参考文献
- 朝日新聞「11カ月の娘が死亡、母親に無罪判決 『暴行を加えたとは言えない』」(2026年3月3日)
- TNC テレビ西日本「【速報】29歳母親に無罪判決」(2026年3月3日)
- 共同通信(熊本日日新聞)「福岡、乳児暴行死で母親に無罪」(2026年3月3日)
- FBS福岡放送「赤ちゃんを死亡させた罪に問われた29歳の母親」(2025年11月19日)
- 産経新聞「母否認『故意に暴行せず』弁護側は無罪主張」(2025年11月11日)
- 産経新聞「乳児死亡で母親に懲役8年求刑」(2026年2月13日)
- FNN テレビ西日本「生後11ヵ月長女への傷害致死 母親に懲役8年求刑」(2026年2月13日)
- RKB毎日放送「乳児死亡事件 傷害致死の罪に問われた母親 初公判で無罪を主張」(2025年11月11日)
- RKB毎日放送「裁判詳報・後編」(2026年2月28日)
- 関西テレビ「検察『虐待だ』vs弁護『病気だ』SBS裁判の最前線」(2026年1月26日)
- SBS検証プロジェクト公式サイト「共同代表あいさつ」
- RKB毎日放送「母親(29)に無罪判決 福岡地裁」(2026年3月3日)